2023.11.23thu.14:00K.O.国立競技場

SPECIAL.1

ラグビー早慶戦100回目企画
『あなたにとって早慶戦とは?』
今年、ラグビー早慶戦が100回目を迎えます。
記念すべき節目の試合に向けて、早慶出身で大学スポーツにゆかりのある方々に学生時代のことや、早慶戦についての思い出を伺いました。
早稲田スポーツ新聞会との共同企画で、連日お届けします。ぜひご覧ください!
第1・3・5・7回は早稲田スポーツ新聞会、第2・4・6・8・番外編は慶應スポーツ新聞会で公開!

SPECIAL.2

スペシャルインタビュー
『学生スポーツに求めるものとは?』
11月23日に100回目となるラグビー早慶戦が行われます。
応援してくださっている、太陽生命保険株式会社 代表取締役社長 副島直樹様ならびに株式会社りらいぶ 代表取締役社長 佐々木貴史様のインタビューをお届けします!

TICKETS

一般の方でご購入希望の方はこちら!
※販売チケットは一般の方向けのため、両チーム関係者の方は別途それぞれのチームからご案内の通りお申込ください。

LETTER

ラグビー早慶戦100周年時に寄せられた
両校OBによる特別寄稿をご一読ください。

早稲田大学ラグビー蹴球部

闘争と敬意に
彩られた歴史

スポーツライター 藤島 大
早稲田大学1984年卒

 それは早稲田の黄金時代とも、慶應義塾の日本一へ至る一幕とも直接は結ばれない。なのに忘れがたい。
 1980年。あえて記すまでもないけれど、もちろん11月23日。満員札止めの秩父宮ラグビー場。『早稲田ラグビー史の研究』(日比野弘著)の引く朝日新聞の一節はこうだ。
「入場できない観客が約1万人に達し、テレビ観戦しようと、すごすごと自宅へ戻る人も」
 すごすごと。なんか、いいですね。
 早慶はともにそこまで全勝だった。ファンはひいきの大学の白星を強く願った。でも、どちらも勝たなかった。
 16対16。
 Wは軽快に動きたかった。Kは重苦しい消耗戦に持ち込もうとした。曇天の枯れ芝はところどころ黒土で汚れていた。終了の笛までの約10分、若者たちはひたむきに攻め、耐えた。勝ち越しトライを執拗に狙うのが黒黄、インゴールを背に全身を農具の鎌とさせて脚を刈るのが赤黒である。
 早稲田のメンバーのひとりがのちに言った。「慶應がスクラムトライを狙う。その時、バックスはディフェンスラインを敷いていた。万が一、僕らのほうにボールがこぼれた場合に備えて」。愚直。偏重。ある種のぎこちなさ。早慶戦の大切な構成要素ではあるまいか。
 引き分けたので放送インタビューに両校のキャプテンが並んだ。
 慶應の4番、東山勝英主将がFW戦の徹底を語った。
「僕ら、それしかありませんから」
 神戸高校出身なのに関西の抑揚はなかった。あのころのタイガーのジャージィにあって本物の虎は常にロックである。あと10㎝、背が高かったら、みんなジャパンでなかったか。
 早稲田の9番、奥脇教主将のまなざしは劇画の登場人物みたいに澄んでいた。火の玉の闘志で知られた。山梨の吉田高校卒業後の受験浪人中、牧場で「牛の乳を絞る仕事をしていた」といつか本人が話していた。
 永遠のドロー。情景や言葉の記憶はあるいは細部を間違えている。構いはしない。世紀の長さの早慶戦のひとつひとつは、攻防をそのまま残す映像でも再現できない。そこに臨んだ者、見つめた者だけのものなのである。
 闘争が敬意にくるまれると文化になる。思い詰めて勝ち負けを重くとらえるから、通算何勝何敗の意味はかえって薄くなる。本物の歴史だ。

慶應義塾體育會蹴球部

努力と結束が
導いた雪解け

朝日新聞 野村 周平
慶応義塾大学2003年卒

 第1回早慶戦は大正11年(1922年)11月23日、三田綱町運動場で行われた。キックオフは午後2時40分。近接する道場の屋上にあふれるほどの観衆が詰めかけた。
 レフリーは当時の東大主将でのちに日本代表初代監督、日本ラグビー協会会長となる香山蕃氏。試合は慶大が14対0で勝利した。前半に1トライ1ゴールで5得点、後半に3トライで9得点。最初のトライは慶大主将の大市信吉、ゴールは北野幸也が挙げた。
 両校によるスポーツの交流は明治39年(1906年)に起きた早慶野球の応援トラブルが元で禁止されていたが、それを両校部員やOBの努力と結束で雪解けに導いた。早稲田ラグビー百年史は「当時の早慶断絶の壁を破ったものは、ぜひ慶大の胸を借りたいという早稲田ラグビーの情熱と、それに応えてくれた先輩校、慶應の友情であった」と記す。1899年に日本ラグビーの発祥として誕生した慶大蹴球部は創部24年目、1918年創部の早大ラグビー蹴球部は創部5年目であった。
 大会の多様化で毎年の試合日が決まった定期戦は少なくなったが、戦前の2試合を除き、早慶戦は「11月23日」の伝統を守り続けている。この日程は、早大の中村元一マネジャーが気象庁で1年で一番雨が少ない日を調べて決まったという逸話が残っている。
 また、応援で観衆同士の争い事が起こらぬよう、学生は制服制帽、一般客は袴の着用が観戦条件となり、拍手以外の応援は厳禁、両校の柔剣道部員が場内の警備に当たるなどの対応がとられた。これが一つの型となり、今も残る静粛な雰囲気へと繫がっている。
慶大の4連勝で始まった定期戦は第5回(1926年)に8対8で引き分け、翌年に8対6と早大が初勝利を挙げた。戦前最後の早慶戦の開催日は1942年の11月29日(慶大11対5早大)。同年11月23日の午前に空襲警報が発令されたため、6日間延期して実施された一戦だった。戦後の再開は1946年。翌年には完成したばかりの東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)で初めて早慶戦が実施された。雨中の戦いとなった第37回は史上初の無得点引き分け試合。第50回は早大の植山伸幸のロングPGが話題となった。第60回は国立競技場で初めて開催された。
 第98回までの対抗戦での通算成績は早大の71勝20敗7分け。近年は第87回に慶大が競り勝って以降、早大が10連勝(1引き分け挟む)している。

one for all, all for one. 第1回早慶戦@三田綱町運動場 大正11年1922年11月23日14時40分K.O.

RESULTS

早慶戦(対抗戦)全戦績
2023年は記念すべき100回目の対決を迎えました。

早慶戦通算成績
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